10月25日、絵本
「木に持ちあげられた家」が刊行されます。挿画を担当しているジョン・クラッセンは柴田元幸責任編集の文芸誌「MONKEY」第二号目の表紙を描いて下さっています。
絵本
「木に持ちあげられた家」の刊行を記念して、全二回にわたりジョン・クラッセンのインタビューを特別公開。
ジョン・クラッセン・インタビュー(第一回/全二回)
インタビュー=柴田元幸
顔は描きたくない
柴田
『Monkey』第二号の素敵な表紙の絵、ありがとうございました。
クラッセン いえいえ、誘ってもらってこちらこそありがとうございます。
柴田 みんながこの猿の背中、撫でたいって言ってます(笑)。
クラッセン ははは。
柴田 先日の講演(三月五日、長谷川義史とのカナダ大使館での講演「『どうかいてんねん?』ジョン・クラッセンと長谷川義史の絵本の世界」)ではコンピュータを使ってらっしゃいましたが、この絵は……
クラッセン これは手描きです。すべて色鉛筆。でも一枚の絵じゃなくて、猿全体を一枚の紙に描いて、黒い線は別の紙、下の柵も別、と三枚描いて写真に撮って、コンピュータ上で合成しています。
柴田 クラッセンさんは、コンピュータをとても人間的に使われるという印象があります。
クラッセン コンピュータを使うなら、とにかくソフトに見えないと。どうしてもシャープになってしまいがちなので。
柴田 この猿はどこから?
クラッセン 特にモデルはいませんね。こっちを見てないキャラクターを描くのが好きなんです。顔を描かなくていいから(笑)。でもそれだけじゃなくて、顔が描いてない方が、神秘がある。この猿はこっちを見てもいないし、誰と一緒にもいません。何を考えてるのかな、と考えさせます。顔を描くのって、どうも抵抗を感じてしまうんです。顔を描かない限り、キャラクターにはある種の威厳がある。この猿は僕が作った操り人形じゃないと思えるんです。この本(『木に持ちあげられた家』を手にとって)でも、顔を見せないことで、人物たちが尊厳のようなものを保っている。
同じように考える人に会ったことはないので、考えすぎかもしれないけど……僕としては、キャラクターになにがしかのプライバシーを与えたいと思うんです。
柴田 たとえば『どこいったん』(クマが赤い帽子をなくして、みんなに「ぼくのぼうし どこいったん?」と訊いて回る話。長谷川義史訳、クレヨンハウス。原書、二〇一一年刊)、対話はあるんだけど、あんまりアイコンタクトがなくて、キャラクターたちが何を考えているのか、はっきりしません。こっちの『くらやみ こわいよ』(少年が家にひそむ闇に声をかけて、だんだん地下の、闇の核まで降りていき、闇とある種の和解を遂げる話。蜂飼耳訳、岩崎書店。二〇一二年刊だが、描いたのは数年前だそう)でも、何しろ相手が闇だから、アイコンタクトのとりようがないし……
クラッセン うん、それにその子は表情もぜんぜん変えなくて、感情を見せません。絵本というと、子どもが怖がるとなると、ギャーギャーわめいたり駆けまわったりするけれど、一人でいて、本当に怖かったら、どんな顔をしているか。実は外からは、怖いかどうかもわからないんじゃないかな。
柴田 『木に持ちあげられた家』では、人の顔は見えないし、「売家」の看板の字も……
クラッセン うん、それはもう少し現実的な理由で、翻訳される可能性を考えると、字は少ない方がいいかなと(笑)。
老人が一人で住んでいる、その気持ちは僕にはわからない。目を描くことも鼻を描くこともできるけど、そうしたらマンガになってしまうかもしれない。描いてない方が、僕にとってはこの人が……よりリアルなんです。
柴田 なるほど。
クラッセン それに、描かない方が楽だし(笑)。
子どもが物語を作ってくれる
柴田 あなたの絵本は、いろんな意味でルール破りですよね。顔は描かないし、『ちがうねん』(大きな魚が寝ているすきに小さな魚がその帽子を盗んで、逃げおおせると思ったけれど……という話。長谷川義史訳、クレヨンハウス。二〇一二年刊)では、絵と言葉が全然違っていたりする。“And he probably won’t wake up for a long time”とか言ってるのに、絵の魚はばっちり目が覚めてる(笑)。
クラッセン 絵を描くことは、僕にとって、自然にできることじゃないんです。だから、人の目を惹くために、絵の上手さには頼れない。何かアイデアが必要なんです。
その意味で、『ちがうねん』はいままでやった本のなかで一番難しかったですね。物語からは、どんな絵を描いたらいいか、決まらないから。これが、『くらやみ こわいよ』だったら、とにかく闇がある。それでグラフィック的にスタイルも決まってくる。でも、『ちがうねん』は、言葉がひとつの物語を語り、絵は別の物語を語ります。どっちかが噓をついている。面白さもそこにあります。僕は帽子を持っています、と言葉が言っていて、誰かが帽子をかぶっている絵があったってつまらない。言葉では、小さな魚は帽子を盗んだ、と言ってるだけだけど、絵を見れば、彼が疚しい思いでいることが子どもにはわかる。子どもが作者に代わって物語を作ってくれるんです。
柴田 その「疚しさ」も興味深いですね。ふつう、絵本の主人公って、子どもが自分を重ねても安全な、正しいことをするキャラクターじゃないですか。でもこの本とか、『どこいったん』だと、倫理的にやや疑わしいというか……
クラッセン うーん、でも、僕のキャラクターも最終的には、いい人たちなんだと思いたいです。『どこいったん』でも、クマはウサギを食べてしまうわけだけど、この最後のページで、クマは自分がやったことについて考えている。自分のしたことは本当によかったんだろうか、そう思いをめぐらせている。このページで、僕らはクマの心のなかに入ります。子どもはこの本を読んで、帽子を盗まれたら盗んだ奴を殺していいんだ、という教訓を感じとりはしないと思う。
柴田 つまり、読み手を信頼しているということですね。
クラッセン うん、もちろん。ひとつのピースは意味をなさない。もうひとつのピースも意味をなさない。でもそれを子どもが組みあわせて、意味を作ってくれる。そういうことに関しては、僕は楽観的ですね。
写真=森本菜穂子
第二回に続く
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